「うわぁ……」
思わず感嘆の声を上げてしまった。
春風が優しく頬を撫でる。風が運んできた匂いに混じって、数枚の桜の花びらが飛んできた。
病院の屋上。
あんまり車椅子に乗っての移動が嬉しそうだったのか、俺の表情を見た看護婦さんがこの場所を教えてくれたのだ。
各階の端に備え付けられたエレベーター。扉に大きく『関係者専用』と書かれたこの扉は、災害時に患者が避難できるように屋上へと繋がっている。
この屋上、普段は休憩所のかわりに医者や看護士さんが利用する場所らしいけれど、実は患者にとっても隠れた憩いの場所になっているらしい。
この事を知っているのは入院の長い患者達ばかりで、病院側も気分転換になる、との理由から屋上に上ることを黙認しているとのことだ。
『これからしばらく入院するんだから、偶の暇つぶしには丁度良いわよ』
そう言われて、早速登ってきたわけだ。
「良い場所ね」
「はい」
本当に、そこは隠れた名所かもしれない。
立地的に、この病院はこの街でも一番高い場所に建っている。その屋上からは、街の全景が俯瞰できた。身近な世界だけど、自分の街を高いところから見下ろすなんて滅多な機会ではない。
高校の屋上も絶景ポイントだけど、ここからの景色はそれにも勝るかもしれない。
ただ黙っているだけなのに、これまでの閉じこもっていた世界から解放されるみたいに心が洗われる。
まだ日が沈むには早いけれど、そろそろ学校が終わった頃だろうか。学校の方から坂を下る人が豆粒みたいに見えた。
「―――あら、いけない。そういえば宅配便、今日届く日だわ」
春夏さんが声を上げた。
「俺なら大丈夫ですよ。何とかして降りますから、春夏さんは帰っても……」
「馬鹿なこと言わない。タカくんが一人でお部屋に戻れるわけないでしょう。……でも、屋上に上がってきたばっかりだし……」
「それなら、俺はもうちょっとここに居ますから、春夏さんは留守電入れてきたらどうです?」
春夏さんは、ぽん、と手を叩いた。
「そうね。それじゃあ少しだけ、いいかしら」
「どうぞ。ここで風に当たってますから」
ごめんねタカくん、といって春夏さんは扉を開けて姿を消した。
重い音をたてて扉が閉まると、何だかさっきまでと違う世界に居るみたいに静かに感じる。
丁度午後の診療が始まった頃。お昼時には食事をとる人で賑わうかもしれないこの場所も、見回してみると俺一人だ。
そう思ったとたん、ひょっこりと寂しさが顔を覗かせる。
こんなに広い空間に自分ひとりしかいないからだろうか。
意識していないのに、いつの間にか学校のあるほうを見ていた。……学校。本来なら今俺が今いるべき場所。
大切な友人達と、ふざけあいながらも充実した毎日を送っていたはずの場所。
……あれから。
病室での一件があってから、俺の部屋を訪れる人は限られていた。
定時検診に来る看護士。暇があれば顔を出してくれる春夏さん。
春夏さんは俺の話を聞いて、このみが見舞いに来るのを制止しているらしい。駄々を捏ねている、と聞いたけれど、もし見舞いに来ても俺は自分の意思とは関わりなく、冷たく接することしか出来ない。
……そう、俺が毎日タマ姉にしているように。
―――雄二はあの日以来病室に来なかった。俺の行為にそれだけ腹を立てているのか。雄二とは、昔からずっとクラスが一緒で、幼馴染ということもあってどんなに馬鹿みたいなことがあってもいつも一緒に過ごしてきた。
そりゃあ、喧嘩をしたこともある。
それでも次の日にはどちらからともなく和解して、またいつもみたいに馬鹿なことをする。そんな日々が日常だったのに。
そんな日常は、あの日を境に狂ってしまった。
誰が悪い訳でもない。
雄二に非はないし、俺は言い逃れをするみたいだけど、好きであんな行動をとったわけじゃない。階段から俺を突き落とした三人組だって、こんな結末を運ぶためにあんな行為をとったわけじゃないだろう。
……結局、今度は誰が謝っても、何もかもが元通りになるような簡単な問題じゃないから。
だから、今度こそは、いままでの腐れ縁に引導を渡すような、そんなきっかけだったのかもしれない。
誰が望んだわけでもない結末は、ほんの少しの悪意と偶然が積み重なって、俺の運命に圧し掛かってきた。
……本当に、誰がこんな結末を望むのか。
風を切る音。一際強い風が俺の体に吹き付けた。
春の日差しは暖かいとはいっても、風はまだ冷たい。このまま体を冷やしていると、その内風邪をひいてしまうかもしれない。
「―――くちゅん」
……あれ?
俺はきょろきょろと辺りを見回した。
何だか可愛らしいくしゃみが聞こえたような気がするんだが、屋上には俺しか居ない。
―――いや。
よく見ると、屋上の端にある給水塔の奥にも、まだスペースがあるらしい。
もしかしたらそこに誰か居るのかもしれない。
そこまではそれ程距離があるわけではない。俺は自由になる左手を使って、タイヤをゆっくり前に進める。
最近は体を無理に動かさない限りは痛みを感じない。折れている手足がギプスでがっちり固められているからだろうけど、それだけ回復に向かってるって事だ。
それでもやっぱり、自分の体重を左手一本で動かすことは苦痛だった。
まず、片方にしか力が働かないのだから真っ直ぐ進むことが難しい。バランスを取りながら、利き腕でもない手で前に進まないといけないのだから。俺は元々筋力があるほうではないし、最近の運動不足もたたってあっという間に額に汗が浮かんできた。
少しずつ前に進んで、声のした方に近づく。
やっとの思いで給水塔の影が見える位置に来たときには、息が切れ掛かっていた。
「―――っ、誰!?」
耳に届いた声は、さっきのくしゃみとよく似た声。
そこに居たのは、同じように車椅子に乗った少女だった。
―――いや。
少女、といっても、背丈で言えばこのみと同じくらいかもしれない。
線の細い体に、まだ幼さの残る声だが、その瞳は人を見透かすような深みを湛えている。
つまり。
―――俺の禁忌である、同年代の女の子。
そう認識したとたん、俺の意思とは無関係に心がざわついた。
「あんた、誰よ」
少女の声は、険悪な空気を漂わせる。
発した言葉に乗せられたのは、明らかな敵意だった。棘を持っているかのように、その言葉が他人に向けられる。
「……お前こそ誰だ」
「―――あたしが先に聞いてるの。黙ってさっさと答えなさい」
かちん、ときた。
どうして俺は敵意を向けられているのか。話しかけてすらいなかったのに、先制攻撃にとなるジャブを打たれた。
しかも少女はおそらくは年下。
たかが数年で先輩風を吹かせるきなんてさらさらないけれど、それでも人と接するのに礼儀というものがあるだろう。
「俺だってお前みたいに礼節を欠く奴に名乗るつもりはないさ」
「『お前』、なんて変な名前の奴は、ここにはいないわ」
「生憎俺も『あんた』なんて知らないな」
バチバチと火花が散る。
いや、実際不可視の火花が飛んでるんじゃないかと思うくらいの緊張感。
まさに一触即発、という雰囲気。
……この僅かな時間で、悟ったことがひとつある。
俺、絶対この女と気が合わない。
車椅子じゃなかったらつかみ掛かるんじゃないか、そんな状況を打ち破ったのは、突如飛び込んできた第三者の声だった。
「郁乃ちゃん? どうしたのこんなところで」
背後から聞こえた声。
首だけで振り返ると、そこにはどこかで見た看護婦さん。……それがこの場所を教えてくれた看護婦さんだと気が付くまで、時間を要さなかった。
「……別に。ただ風にあたってただけ」
「―――貴明くん、郁乃ちゃんと知り合いだったのかしら?」
「いいえ。今初めて会いました」
面識があれば、間違いなくこんな女には話しかけない。
「もういいです。そろそろ病室に戻ってもいいですか?」
さっきまでとは打って変わって猫を被る。
「そうね。それじゃあ、戻りましょうか。貴明くんは?」
「―――大丈夫です。すぐに迎えが来るので」
「そう? それじゃあ、風邪をひかないでね」
看護婦さんは猫かぶりの車椅子の後ろに回ると、そのまま車椅子を押していく。
横を通り過ぎたとき、俺は一つ仕返しを思いついた。
「―――じゃあな、『郁乃』」
「……気安く呼ぶな、『バカ明』」
郁乃は無表情で向こうへと消えていく。
……何か、腹立たしい。
この病院に入院している限り、また会う可能性もあるのだろうか。
そう考えると気が重い。
ふと、気が付いた。
あれ、俺、普通に―――?
振り返る。
そこには誰も居ない。郁乃は既に病院の中に戻ってしまったようだ。
今。
郁乃との会話は確かに苛立たしかったが、それでもその中であの闇が顔を覗かせることは無かった。
確かに同年代の女性を相手にしていたのに。
俺の心は、妙な苛立ちと少しの嬉しさを混ぜ合わせたような、複雑な気持ちになった。
何ともいえないこの心情を紛らわすために、俺が出来る事といえば一つ大きなため息を吐くこと位だった。